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DgS創世期に旗揚げしたAJDという“旗艦”
“進化”から“真価”へドラッグストアストーリー・素晴らしき経営者との出会い②

ドラッグストアの創世期に旗揚げしたAJD という“旗艦”

“ディスカウント合戦”に巻き込まれた医薬品小売業界



■“乱売旋風”が吹き荒れた1950年〜1960年代


1957年9月23日、主婦の店ダイエーの1号店が大阪市旭区の京阪電鉄千林駅前にオープンした。化粧品や日用雑貨などを売りまくった主婦の店ダイエーのニュースは、即日本列島に伝えられた。

この情報を耳にした医薬品小売業界、特に大型量販店を志向する多くの経営者たちは、「これだけ多くの買い物客が押し寄せて来るのは、単に価格が安いだけでないだろう。なんとかその要因を見つけたい」と、大阪へ何度も足を運び連日、たくさんの買い物客で賑わう現場を視察した。

買い物する客の多くは女性客、それも主婦層であること。店名の“主婦の店”が、店舗のブランドそのものとして浸透していったことも主婦層から支持を集めた大きな要因の一つだと思う。

医薬品小売業界を襲った“乱売旋風”にさらに追い討ちをかけるかのような事態も発生した。1960年のことだった。「薬・化粧品5〜7割引」―こんな謳い文句で東京・池袋に三共薬品が登場。“乱売旋風”がピークに達したことだ。

この年の2月に、医薬品小売業関係者およそ2000名が集い、医薬品の危機を守る全国大会が開催された。そしてこうした事態を迎えた東京・池袋の地元協同組合では、安売り店への対抗措置として急遽、三協薬品をオープンし壮絶な戦いが繰り広げられた記録が残っている。


■一人の経営者の思いで協業グループづくりが始まった


1960年代は、まさに医薬品小売業にとって混沌とした10年間であった。当時、大手製薬メーカーが、医薬品小売業の系列化政策を進め、地域有力店の系列チェーンの組織づくりに力を注ぐ一方、スーパー以外にも異業種企業も参画するなど、特に医薬品小売業界は「大変動が起こることは間違いない」として、危機感を募らせた有志たちが集まり組織づくりが話し合われたのだ。

こうした事態に、早くから危機感を抱いていたのが、スギヤマ薬品創業者の杉山貞男さんである。愛知を中心とした店舗展開を始めた杉山さんは、「創設の5~6年前から、薬局をやっていても一人の力では弱いという思いで、現状だけでなく将来についても非常に疑問をもっていました。激動の70年代を個人で考えていても限界がある。結集することで、力をつけて共同仕入れや共同販売をすることで共通の課題に取り組み、力を合わせ明るい展望がもてないかと頭のなかを駆け巡っていました」――こんな思いを、千葉薬品創業者の斎藤茂昭氏が受け止めたことから、医薬品小売業最大の協業グループ作りが始まった。


日本一の医薬品小売業最大VCグループ誕生の軌跡


■創設25周年記念誌の座談会で語られた革命前夜の秘話


いつの時代にあっても、組織作りにはリーダーの存在が不可欠だ。そしてその人物は、常に“先見の明”をもち、的確に物事を判断し方向を見定める“実力”がなければならない。私の手元に、AJDが創設されるまでのストーリーをまとめた資料がある。創設25周年を期して製作された記念誌だ。

石橋幸路さん(マルゼン創業者)、斎藤茂昭さん、杉山貞男さんが語った座談会『25年前、そして未来を語る~出会い-同志が参集-誕生-AJDグループ1兆円構想へ』だ。座談会を読ませていただいたが、プロセスが事細かに、当事者だけしか知りえない秘話綴られていた。AJD結成1年前の1969年のことだった。この記念誌から一部を紹介させていただこう。


創設25年を期して1994年に製作された記念誌の座談会で旗揚げについて話し合う斎藤茂昭さん(左)、石橋幸路さん(中央)、杉山貞男さん(右)


「斎藤さんは、私たちが、このまま手をこまねいていては、どう考えたって将来の生存は厳しい。世のなかの変化を見つめなくてはならない。そのためには何をすべきなのか。口角泡を飛ばして話していました」(杉山さん)

そして二人は、「世界を見ると、新しい組織形態の考え方もある。何かできそうだから、情報だけは正しく分析しておこう。ただし、二人だけでは不十分。皆を呼べば、豊富な情報も集まり情報判断もできる。薬業界の新しい流通革命として小売流通がリーダーシップをとっていける」という結論に達したという。

そこで杉山さんと斎藤さんは、「医薬品小売業の将来を見据えることができる人物」として、組織づくりの“まとめ役”として一人の人物を選んだ。後にAJD初代本部長となる石橋幸路さんだ。二人の要請を受けた石橋さんは、日夜、激しい戦いを繰り広げていた九州地区の“まとめ役”として活動していた平野清治さん(サンキュードラッグ創業者)と合流。AJD結成へのカウントダウンが始まった。

やがて杉山さんと斎藤さん、そして“リーダー役”の石橋さんに加え当時、九州地区で仲間を募り共同仕入れを計画していたサンキュードラッグの平野さんも参加して行われた結成への話し合いで、「どうせなら仲間は多い方が良い」として、静岡の君澤藤一さん(君澤薬局社長)、熊本の下川互さん(下川薬局社長)、静岡の川村昭二さん(丸善薬局社長)、横浜のハックイシダ創業者の石田健二さんらに呼び掛け、具体的な活動内容や組織のあり方等々、オールジャパンの組織づくりの構想みついて話し合ったことが克明に記されている。


■医薬品小売業界に革命のノロシをあげたAJD


1970年4月23日に開催されたAJDの設立総会の記念写真(AJD提供)


1970年4月23日。私の記者生活にとっては、決して忘れることのできない、そして医薬品小売業界にとっても記念すべき革命の日でもある。1970年3月のことだった。先輩記者から、「4月23日に都内の東京ヒルトンホテルに大型量販店が集まり、日本の医薬品小売業を支えるグループが誕生するから一緒に行こう」と誘われ取材に行くことになった。

それまでの取材の受け入れ店と言えば、大半が中小の薬局であったから、まだ見ぬ世界へのチャレンジに恰好の受け皿であり、この先輩記者の一言で私の53年に及ぶ長い流通記者生活が始まったのだ。

旗揚げしたのは、現在、グループ年商2兆円を超すVCとなったAJD(オール・ジャパン・ドラッグ)。AJDこそは、日本の医薬品小売業にとって今日のドラッグストア業界の隆盛に、とてつもない貢献をした協業グループである。我が国最大の協業グループとして生き続け、顧みれば1970年4月23日、現場で旗揚げに参加した経営者たちとの出会いこそが、私が流通記者としての第一歩を踏み出しだす大きなきっかけとなったことは言うまでもない。

AJDメンバーは、地域内で猛烈な生存競争を繰り広げていたライバルばかりだったから、旗揚げに馳せ参じた幹部が地区をまわり、経営者一人ひとりに声をかけ大同団結の理由を説いて周り、ようやく結成にこぎつけた4月23日。この日はまさに医薬品小売業の記念すべき革命の時であったに違いない。

参加企業は年商1億円以上の53社(560店舗・総年商520億円)。まさに日本の医薬品小売業最大の協業グループの誕生であったが、同時に我が国にドラッグストアという新しい業態作りがスタートしたと言っていいだろう。この時代には、JACDS(日本チェーンドラッグストア協会)はなく、しかも通産省(現経済産業省)の産業動態統計にも入っていなかったから、今日の8兆7000億円市場の形成はAJDの存在なくしては語れない。

AJD創設のメンバーには、本部長を9年にわたり続けられた初代の石橋幸路さんをはじめ、杉山貞男さん、齋藤茂昭さん、平野清治さん、今年90歳を越した石田健二さん(ハックイシダ創業者)ら15人が名を連ねていた。

ドラッグストア創世記の経営者たちは、国民から圧倒的に支持され隆盛を誇っていたアメリカ流通業、特に最先端のドラッグストアに目を向け、何度となく繰り返し日本のドラッグストア作りへ奔走していった。


■“病気産業”から“健康産業”への取り組みを学ぶ


このビッグ組織の誕生は、自身の記者生活を大きく変えることになった。それは当時、医薬品小売業の最前線はOTC薬の販売を中心とした“病気産業”での取り組みが主流であった中で、健康になるための方法とそのための商品を提供する“健康産業”最前線への経営戦略を展開していたからだ。AJDメンバーの話は、見るもの聞くものすべてが新米記者にとって興味あることばかりであったから、何かにつけて取材に出かけた。

中小の薬局を対象として新聞社に所属していたから、「病気になった人たちのための店づくりも重要だが、より健康になりたい、美しくなりたい人たちのために、どんな店づくりが良いのか。目の前の病を軽減することもさることながら、健康で長生きをしたい多くの人たちのための店を紹介しよう」と思い立ち、創業者たちの話に耳を傾けた結果、その原点はアメリカの流通業にあることを知った。

アメリカの流通業、特にドラッグストアは、国民から信頼され愛される業態として急成長を遂げていたから、AJDの旗揚げに参画した日本の大型店量販店の経営者たちは、こぞって視察に参加し、経営ノウハウや商品、人財養成等々を学ぶために精力的にアメリカ流通業の最先端を学んだ。


■ 創設1年後からアメリカ流通視察がスタート


創設1年後には、AJDメンバーたちのアメリカ視察が始まり、西海岸のドラッグストアをはじめ異業態企業から経営のあり方を学んだ。私の手元にAJDを取材した際にいただいたアメリカのドラッグストアのセミナーレポートがある。コーディネイターだったハックイシダの石田健二さんは、視察にあたって次のように呼びかけている。

「現在のアメリカの日常生活の中で、もしもある日突然にドラッグストアがなくなったとしたら、アメリカ人の毎日の生活はどれほど不便になるかわからない。日本でも同様になくなったとしたら…と同じことで新しい業態の出現が新しい国民大衆のニーズを引き起こす。アメリカ人にとって、ドラッグストアが果たしている消費者へのニーズの提供の重要性を、日本の消費者大衆に対して、我々は自らの手で提供していかねばならない」

石田さんは、視察参加者に(1)ドラッグストアは日本の経営者にとって未来を賭ける新業態たりうるか(2)日本でドラッグストアを作る場合、その立地、規模、面積、そしてレイアウトおよび売り場構成、商品構成はどうあるべきか(3)日本のドラッグストア作りに乗り出そうとして成功させるために最も重要な第一前提条件は?――を投げかけ、共に10日間、朝早くから夜遅くまで精力的に視察した内容が綴られている。

参加者に話しを聞けば、昼間はアメリカで名だたるドラッグストア企業の本部を訪問し、経営者の話に耳を傾ける傍ら精力的に店舗クリニック、日が暮れてホテルに戻れば、1日を締めくくるセミナー、そして翌日の朝8時までにレポートを提出し、朝食後にバスに乗れば、次の目的地に向かうまでの時間を利用して、石田健二さんや斎藤茂昭さんらのレクチャーがあったという。

次回から、創設53年後の今もなお成長を続けるAJDの初代本部長として陣頭指揮に立った石橋幸路さんと交流した日々を紹介したい。石橋さんは、会員企業だけでなく、多くのメーカーのトップや幹部たちから慕われ、後には定期的にセミナーを主宰していた。通称“石橋学校”と呼ばれ、多くの人々が巣立っている。


【著者プロフィール】
山本武道(やまもとたけみち)
千葉商科大学経営学部経済学科卒。1969年からジャーナリスト活動をスタート。薬局新聞社の記者として中小の薬局、ドラッグストア分野、自然食品・ヘルスフードを取材。健康産業新聞社取締役を経て、青龍社取締役に就任。その後、フリージャーナリストとして『JAPAN MEDICINE』(じほう社)、『ファーマウイーク』(同)の遊軍記者として参加。2007年、ヘルスビジネスマガジン社取締役社長、がん患者と家族に向けたWEBサイト『週刊がん もっといい日』を開設し、編集長に就任。2007年から中国ドラッグストア経営者対象の『月刊中国葯店』(北京市)に連載中。現在、ヘルスケアワークスデザイン取締役会長、モダン・マーケティング代表。『週刊がん もっといい日』編集長、シード・プランニング顧問。元麻布大学非常勤講師。