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マルゼン創業者・石橋幸路編<その1> “進化”から“真価”へドラッグストアストーリー・素晴らしき経営者との出会い③

マルゼン創業者・石橋幸路編<その1>
経営者として優れAJD初代本部長としても活躍 



グループ店舗数4923、総年商2兆円を超す協業グループのAJD(オールジャパンドラッグ)。結成53年後の今もなお躍進を続け、ドラッグストア市場の約3割を占有するまでになった。その創設には、一人の人物を抜きにしては語ることはできない。尼崎に本部を構えたマルゼン創業者の石橋幸路さん(薬剤師)だ。1970年4月23日に誕生したAJDの初代本部長として9年間に渡り組織をまとめ上げた。そこで今回からは、”先見の明”を持ち、ドラッッグストアの行末を正確に見据え、世間では「100%失敗するであろう」とまで言われたAJDを、医薬品小売業最大の協業グループの基礎づくりに多大な貢献をされた石橋さんを紹介していくことにする。(記事=流通ジャーナリスト・山本武道)


■1970年4月に旗揚げし9年間に渡り組織をまとめ上げた


マルゼン創業者の石橋幸路さん

「これまでの医薬品小売業のグループ化といえば、そのほとんどが友人や知人を頼っていた“運営共同体”的な存在でした。しかしそれで、は激化する小売薬業界で勝ち抜くことはできない。もはや“健康即薬”という時代ではなく、高まる国民の健康志向に対して、健康になるための商品と情報のある店づくりが不可欠になる。

国民の健康づくりのための商品を開発し、すべての会員企業が全力で売る“共同販売機構”でなければならない。そのためAJDは、協力していただいいるメーカーさんや問屋さんとは、いっさい喧嘩せずに、私たちの商品を開発・製造していただき、みんなで売るーそれがAJDなのです」―ある日、石橋さんからお聞きした。

AJDの今日の発展は、本部長就任を前にしてメーカーとの信頼関係を築く重要性を同志たちと語り合い、多くのメーカーと問屋の協力を得て、会員企業へ多くの利益商品(PB商品)を生み出し共同仕入れ商品を全力で販売してきたからだと思う。歴代の本部長は、現在の平野健二さんで15代目になるが、後にも先にも9年間に及ぶ本部長を務めたのは石橋さんしかいない。

石橋さんが、サンキュードラッグ創業者の平野清治さんに2代目の本部長を引き継ぐまでの9年間におけるAJDの加盟社数は、旗揚げに参加した53社から140社、店舗数は810から1646店、取扱品目数は150アイテムから1176アイテム、商品の取扱額は3.3億円から54億円へと大飛躍した。

本部長としての在任期間中、花王と提携しグループ第1号のPB商品(花王洗剤)を皮切りに、AJDの生命線となる多くのPB (プライベートブランド)商品を開発し、共同販売機構のリーダーとして日本一の協業グループづくりへ、同志たちとともに全精力を注いでいった石橋さん。本部長に就任してから、まず国内の店舗視察をスタート。そして翌年からは、ドラッグストア作りへのノウハウを学ぶため、アメリカ流通業、特に国民から圧倒的な支持を得ていたドラッグストア視察を始めた。

「石橋さんの人柄、そして将来を見据えた先見性、組織の発展に欠かせない商品の開発力と販売ノウハウ、カウンセリング力を高める教育力、商品を供給していただくメーカーとの協力体制、人財養成等々、時には友として夜遅くまで話し合い、とにかく楽しい日々でした」―1979年に2代目本部長となった平野さんは、取材のおりに、よく石橋さんの業績について話されていた。


■差別化へ“ ”共同販売機構”という旗印を掲げ組織を拡大



AJD創設時に44歳だった石橋さんは、「当時、仕入れ機構を打ち出すグループが少なくなかった中、我々は差別化への新しい視点を持たねばならない。では、どのような視点で組織づくりを進めたらよいか。連日、同志たちと話し合った結論が“共同販売機構”を旗印にすることにした」と取材の際に聞いた。

設立当初から、”共同販売機構“を貫いてきたAJD、他組織との差別化へ会員企業の利益となるPB商品を相次いで誕生させるだけでなく、実際に売れたノウハウを他の会員企業に提供。仕入れた商品を売り切ることに専念し実績を積み上げることで、さまざまな利益商品開発に全力を注いできた。

当時、中小薬局のための協業グループは、1社では導入の難しい商品を、共同で仕入れることで、数多くの商品を参加企業に提供してきたが、共同で仕入れるだけでなく共同で販売する機構を掲げたAJDの存在は企業からも注目を集め、PB(プライベート・ブランド)商品の開発も急増する傍ら、有利な価格で商品を仕入れることができる商品フェアからは、多くの利益商品がデビューしていった。


■創業者との出会いは最新情報入手の“宝庫”だった


東北ブロックを訪問した石橋幸路さん(左)石田健二さん(中央)関口信行さん(1989年8月、山形の花笠祭で:『追悼 AJDの先駆者 我らの師 石橋幸路氏』から転載)


1970年4月23日からの取材活動は、とても興味あることばかり。当時、東京・中央区内にあった細長い事務所に足繁く通いお邪魔して、いろいろとお聞きしたことは再三。それから手狭になったAJDの本部は、都内台東区の浅草と渋谷間を結ぶ銀座線の三越駅に直結した三越デパートの真向かいの東洋ビルに移転。専門誌紙の記者を集め記者会見が頻繁に行われ、各地のドラッグストアの活動状況や隆盛を誇っていたドラッグストアの最新情報が提供されたほか、私にとっては各地から集まった会員企業との出会いの場でもあったから、取材のネットワークは次第に拡大。人脈構築に役立ったことはいうまでもない。

1か月に1回、AJDの事務所で執行部の会合があったから、その日時に行けば石橋さんや平野さん、千葉薬品創業者の斎藤茂昭さん、下川薬局創業者の下川亙さん(後の三代目本部長)ハックイシダ創業者の石田健二さん(後に四代目本部長)らにお会いする可能性は大だった。取材ではなく記事にしない約束で頻繁にお会いすることもあったし、そのうちに単独での取材も了承していただくようになったから、創業者との出会いは、まさに最新のドラッグストア情報を入手するための“宝庫”であったように思う。


■本部長時代の単独インタビューは9年間NGだった


石橋さんとは、東洋ビルの裏手にあった寿司屋で昼食を共にさせていただいたこともは懐かしい限り。楽しい日々だった。言葉の端々に、「AJDこそは、共に医薬品小売業の行末を、同志であり、そして友でもある方々と話し合える素晴らしい場なんだよ」と。そのうち、何度となくお会いするようになってから、一人ずつ単独インタビューを依頼しOKをいただくようになった。サンキュードラッグ(北九州)、下川薬局(熊本)、千葉薬品(千葉)、ハックイシダ(横浜)と取材地域は広がっていったものの、石橋さんだけは返事はもらえず、だった。

それでも粘って、「石橋さん、AJD本部長として単独インタビューをさせていただけませんか」と何度もお聞きしたが、戻ってくる返事は「NO」。その理由は、「本部長の職にあるうちは取材を受けない」とのことだった。むろん記者会見では、質問させていただいたことに関しては的確に回答してくださっていただいたが、いっこうに「YES」とは、いってくださらなかった。その代わり、山本君私が本部長の座をどなたかに受け継いでいただいた際には、必ず連絡するから…」

(この項、次回に続く)


【著者プロフィール】
山本武道(やまもとたけみち)
千葉商科大学経営学部経済学科卒。1969年からジャーナリスト活動をスタート。薬局新聞社の記者として中小の薬局、ドラッグストア分野、自然食品・ヘルスフードを取材。健康産業新聞社取締役を経て、青龍社取締役に就任。その後、フリージャーナリストとして『JAPAN MEDICINE』(じほう社)、『ファーマウイーク』(同)の遊軍記者として参加。2007年、ヘルスビジネスマガジン社取締役社長、がん患者と家族に向けたWEBサイト『週刊がん もっといい日』を開設し、編集長に就任。2007年から中国ドラッグストア経営者対象の『月刊中国葯店』(北京市)に連載中。現在、ヘルスケアワークスデザイン取締役会長、モダン・マーケティング代表。『週刊がん もっといい日』編集長、シード・プランニング顧問。元麻布大学非常勤講師。