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マルゼン創業者・石橋幸路さん<その2>
“進化”から“真価”へドラッグストアストーリー・素晴らしき経営者との出会い④

今日の実像を言い当てたマルゼン創業者・石橋幸路さん<その2>
創業者や次世代経営者たちに向けた『石橋書簡』



「戦いは一瞬で決まることもあるが、10年、20年と長期にわたる場合もあることを知っておくべきであり、そして戦う相手の半分くらいは、自己との戦いである」――先見性に優れ、ドラッグストアの今日の隆盛を見据え、活躍されてきたマルゼン創業者の石橋幸路(ゆきじ)さんが残された語録の一つだ。AJDという協業グループを同志たちと日本一に育て上げた石橋さんの実力は、誰もが認めるところだが、石橋さんの語録は、AJDが誕生してから53年後の今も、これからも次世代経営者たちに受け継がれてほしい。まさに、「石橋語録の真髄を訪ねることは、新しいビジネス創造に結びつく」――本連載のプロローグで記した『温故知新』の意味を改めて噛み締めてほしいと思う。(流通ジャーナリスト・山本武道)


■石橋さんの取材が解禁されるまでに創業者たちと交流


石橋幸路さん

「先見性を持つことは指導者にとって極めて大切なことだ。先見性を持てない人は指導者としての資格がないと言ってもいい」「ものを作る前に人を作る」「心が通った商売」「誠意が基本」等々…。私が愛読する『一日一話』(PHP総合研究所編所載)は、松下電器産業(現パナソニック)創設者の松下幸之助さんが、事あるごとに語ってきた人生や仕事、経営や人財育成などに関する言葉の中からピックアップしてまとめられた語録だ。

同書を、繰り読み返しているうちに、一人の人物が浮かび上がってきた。1970年4月、AJD(オールジャパンドラッグ)のチェーン本部長、オールジャパンドラッグ株式会社の代表取締役社長に就任。9年間にわたり陣頭指揮に立ち、そして1979年4月に平野清治さん(北九州市・サンキュードラッグ創業者)に本部長をバトンタッチしてからは、オールジャパンドラッグ株式会社代表取締役会長、その1年後に代表取締役相談役となった石橋幸路さんである。

創設時の同志たちとともに、AJDを医薬品小売業最大の協業グループに育て上げた石橋幸路さんが、取材の折々に話していただいた言葉が、今もなお私の頭の中に深く刻み込まれている。その内容は、経営者としてさまざまな人々に対する温かい思いやり、同志や商品を供給するメーカー、働くスタッフを大切にすること、そして私自身も人としての生き方、人脈作りなど、記者として歩む道に多くのご示唆をいただいた。

「AJDのすべての執行部から身を引くまでは、取材は受けない」と石橋さんから釘を刺されていたこともあって、いつAJDの本部長を辞退されるかはわからない日々が続いたことは、ある意味で私にとってはチャンスだった。AJD本部での役員会議のために、各地から集まったAJD会員(ドラッグストア創業者)と言葉を交わすようになったからだ。

千葉薬品創業者の斎藤茂昭さん、サンキュードラッグの平野清治さん、ハックイシダ創業者の石田健二さん、下川薬品創業者の下川亙さん、スギヤマ薬品創業者の杉山貞男さん、クスリのサンロード創業者の樋口俊英さん、キリン堂創業者の寺西忠幸さん、龍生堂本店の関口信行さん、オダギリ創業者の小田切修さん、杏林堂薬局創業者の渥美雅之さん、湘南薬品創業者の曽我寿郎さんをはじめ、多くの経営者たちと取材を通じての交流は、記者としてはドラッグストアという新しい業態を学ぶ絶好の機会であり、楽しかった日々を思い出す。


■今もなお、生き続けている数々の石橋語録


年商1億円を超す大型店が参集したAJDの統帥として、どう結束に導いたのか。同志と語らってきたマルゼン創業者の石橋幸路さんの一言一言は、ドラッグストア創世期にあった数多くの経営者たちに多くの教訓を与えたに違いない。

「山本君、社会は目まぐるしく変化する。企業だって同じ。今、繁栄していたとしても、この先もずっと保証されるとは限らない。だから自社の経営が上手く行っている時に、さらに日々努力する必要があるんだ。そのためにも、経営者は常に新しいビジネスの創造を考え実行することだ」

石橋さんの取材は、9年間を経て本部長を辞任されてからOKにはなっていたが、実は石橋さんは退任後もAJD株式会社の代表も続けられたから、結局、私の取材が始まったのは、1984年になってからだった。

石橋さんに東京のAJD事務所でお会いした私は、矢継ぎ早にいろいろお聞きした。石橋さんのお答えは、ご自分の実践をそのままお話しいただけるので、お会いするたびに、「次にお会いするときには、どのようなことをお話しいただけるのか」――生きた学問を私一人でお聞きできたことに感謝するばかりである。

ある日の取材では、「経営者は最終的には孤独であり、この孤独感を和らげてくれるのが、“良き師、良き本、良き友人を持つこと”である。何十億、何百億円の財産を持つことよりも、長い人生にとって大事なものだ。ビジネスに成功するためには、“努力”の2文字にプラスし良き師、良き本、良き友人を持つこと」と教えていただいた。

創設前夜から創業者たちが会合を重ねて誕生したAJDの存在は、良き友との出会いの場であり、心を許して話し合える場であり、成功事例のノウハウを惜しげもなく同志たちに提供する場であったり、そして石橋さんをはじめアメリカ視察で学び実践し成功した創業者たちに教えを乞う場であったり。共に切磋琢磨してきたことは、ドラッグストア業界の今日の基礎を築いてきたことは、紛れもない事実だ。

別の日には、「目まぐるしく変化する時代の流れに対して、ドラッグストアはどう対応すべきですか?」とお聞きしたところ、即「高齢社会に目を向けることだ」との言葉が返ってきた。

1967年に初めて我が国の人口総数が初の1億人に達してから41年後の2008年の1億2783万人をピークに、3年後の2011年には1億2808万人となり、以後は減り続ける一方、65歳以上の高齢者人口比率は逆に増え総人口の3割近くなってきた。今でこそ、高齢者社会の到来を抜きにしてビジネスの裾野は広がらないが、石橋さんは早くからこの課題に対してドラッグストアは、どうチャレンジしていくか説いておられた。

「これからの医薬品小売薬業界は、高齢社会という点を抜きにして考えられない。人間は、やがて老化していく。医薬品では保健剤が求められていくだろうが、実は老化を防ぐようなものが求められるだろう」と指摘されたが、石橋さんはこの頃から、「“健康長寿”が関心を呼び、老化を防止するためには薬に限らず、様々な分野の商品の需要が増えてくる。なぜならば高齢者は裕福であることは事実だから…」と語られていた。


1994年10月に撮影されたスリーショット写真(右が石橋さん、中央がハックイシダ創業者の石田健二さん、左がキリン堂創業者の寺西忠幸さん、『追悼 AJDの先駆者 我らの師 石橋幸路氏』から転載)


■石橋幸路さんのプロフィール


石橋さんは、大正14年(1925年)2月25日に、父・幸資さん、母・つるさんご夫妻の長男として大阪市天王寺区で生まれた。1947年に徳島工業専門学校製薬工業科(現在の徳島大学薬学部)を卒後、同年6月に共同薬品工業に入社。1950年に病気療養のため退社してから4年後の1954年4月に大阪市東淀川区に石橋薬局を開設。1960年2月に株式会社丸善薬局を設立し、代表取締役に就任。1970年4月に株式会社大阪マルゼン薬局、同12月には株式会社マルゼン薬局の代表取締役に就任。

1970年4月、AJDチェーン本部長とオールジャパンドラッグ株式会社の代表取締役社長に就任。1979年4月、本部長を退任。オールジャパンドラッグ株式会社代表取締役会長、1981年7月にオールジャパンドラッグ代表取締役相談役に、1992年6月には取締役相談役、1994年に最高顧問に就任。1997年4月24日に脳内出血で倒れ、その後に肺炎を併発したものの一時は回復。しかし同年の6月23日午前2時36分に逝去された。享年72歳。

石橋さんは、社会人となってからは、企業に勤め、やがてビタミン研究所を設立し小さな薬局(石橋薬局)を開設する傍ら破産寸前の映画や芝居の興行会社、建築会社の再建に力を入れるなど、異色の経歴をお持ちだ。

ちなみに石橋さんの取材を始めた当時の株式会社マルゼンの規模は108店舗のチェーン企業として年商は86億円。趣味は読書と釣り。石橋さんの経営者としての手腕は、“石橋理論”として多くの崇拝者がいて、後に通称“石橋学校”に学ぶ経営者は少なくなかった。


■今日のドラッグストアの実像を言い当てた『石橋書簡』


実はAJDの会員企業には、アメリカのドラッグストアにご夫婦揃って勤務された経験をお持ちで、AJD開発の社長に就任され、アメリカ流通業視察のコーディネイターとして活躍された薬剤師の保坂昇克(のりよし)さん(マルサン薬局)がいた。その保坂さんが、たまたま古い会議資料を整理したところ、石橋さんから頂いた『石橋書簡』見つけたのだ。

「日に焼けて褐色化した紙には、それでなくても身勝手な発言をする私への戒めが数多く述べられていました。いつまでも石橋さんを忘れないために…」と感銘を受けた書簡には、数多くの創業者や将来引き継ぐだろう若き次世代経営者に向けた語録が記されていたという。

その内容は、他界された石橋さんを偲んでAJDによって製作された『追悼 AJDの先駆者 我らの師 石橋幸路氏』(1998年10月発行)に盛り込まれ、書簡を見つけた保坂さんは同書に次の一文を寄せている。

「指導者のお立場にあった石橋さんは、お会いするたびに必ずといって良いほど新聞のコピー、時には新幹線内で読み終えた経済誌もいただきました。おそらく私に読ませ理解させたかったことは、“人生哲学”にあったと思われます。AJDが世界有数のVCとして成長してこられたのも、石橋幸路さんの賜物でした」と保坂さんは記している。

『仕事で失敗しない方法』『石橋式戦術論』『意識革命が必要な時代に』『付加価値商品の育成』『友を語る』『価格戦争に勝ったものは必ず価格競争に負ける』『人を教育する能力』『人材はあくまで材料である』『人あっての組織』『時に長所が欠点になる』『知と勇』『企画力と実行力』『利は元にあり』等々、石橋さんは多くの語録を残された。


石橋語録
●価格競争に勝ったものは、必ず価格競争に負ける。これが、“経済の鉄則だ。
●経営者は、一生が学習の連続だ。
●経営者には、人を教育する力、養成する力が要求される。
●経営者は、自分を管理し自制すること。
●経営者は、肉体的・精神的な健康を考えよ。
●仕事とは、緻密な計画とタイミングが大事である。
●結果よりも、その過程(プロセス)が大事である。
●高齢社会に目を向けよう。
●人生を送るときは、良き友人がほしい。


書簡に残された石橋さんの語録は、今日のドラッグストアの“実像”をズバリと言い当てているから、“すごい”としか言いようがない。

『石橋書簡』に記された語録を今一度噛み締めて欲しい。かつて医薬品小売業の世界にはディスカウントの嵐が吹き荒れていたが、今や成長し続けるドラッグストアには、激しい競合化の荒波が押し寄せている。では、これまでのような戦略で戦い続けることはできるのだろうか。

石橋さんから、「取材OK」の回答をいただいてから、私が取材のテーマに選んだ『薬局・薬店が繁栄する法』を聞くなり、「私が知りたいくらいだ」と言いながらも、繁栄する店、繁栄しない店を指摘していった。その内容は次回に記すことにしよう。


【著者プロフィール】
山本武道(やまもとたけみち)
千葉商科大学経営学部経済学科卒。1969年からジャーナリスト活動をスタート。薬局新聞社の記者として中小の薬局、ドラッグストア分野、自然食品・ヘルスフードを取材。健康産業新聞社取締役を経て、青龍社取締役に就任。その後、フリージャーナリストとして『JAPAN MEDICINE』(じほう社)、『ファーマウイーク』(同)の遊軍記者として参加。2007年、ヘルスビジネスマガジン社取締役社長、がん患者と家族に向けたWEBサイト『週刊がん もっといい日』を開設し、編集長に就任。2007年から中国ドラッグストア経営者対象の『月刊中国葯店』(北京市)に連載中。現在、ヘルスケアワークスデザイン取締役会長、モダン・マーケティング代表。『週刊がん もっといい日』編集長、シード・プランニング顧問。元麻布大学非常勤講師。