2024年6月10日(月)曇り 1920年の今日、「時の記念日」が制定されました。
中野区と関わったきっかけは、駒野さん・中山さん、伊藤さんや朝倉さん青木さんなど、地域の皆さんと巡り合ったのが大きい。 2 年前に埼玉県白岡市の地域包括支援センターウエルシアハウスに来ていただいたのがご縁の始まりである。
そんな宮桃町会の皆さんと作っているのが「暮らしの保健室桃園」である。毎週火曜日の10時から12時まで桃園区民活動センターの調理室をお借りして、楽しいおしゃべりとコーヒーとケーキのサロンが続いている。 昨年からやっているので、既に28回を数えた。
毎回欠かさず参加する A さんをはじめ最高齢の99歳の B さんなど、初めて参加する方を含め10数名が集まってきて、日頃の皆さんの生活の話や中野の昔話など「他愛もないおしゃべり」で過ごしている。
つい先日の話題は「お箸の握り方」 で、最近の子供たちの箸の持ち方があまりにも昔と違って「作法がなっていない」という話から、最後は「この国はどうなっていくんだろうね」という、高齢者の嘆きに話題が変わっていった。
「昔は町内会で旅行に行ったりお祭りをしたり、いろんなつながりがあったけど、今はそんなこともすっかりなくなったね。近所の子供たちを見かけることもなくなったし…」
日頃の仕事ではなかなか聞けない地域の皆さんのこうした日常の 「暮らしの様子」や地域の移り変わりは、まさに地域包括ケアシステムの「住まい方」に通じている。
地域包括ケアシステムをめぐる高齢者の課題は多様にあるが、 社会資源としての医療・介護・福祉サービスを提供することにとどまらず、こうした地域の「暮らしを支えること」がより大きな意味を持っている。
「認知症や高齢になっても住み続けることができる街」は、実はこうした地域の皆さんと一緒に作っていくことに他ならない。そして暮らし続けることとは、個人が健康であることばかりではなく「ともに暮らしを彩ること」でもある。
戸山団地での「暮らしの保健室」 から分家?して江戸川区の暮らしの保健室かなでを作り、民間での地域包括支援センターを目指した活動が、ようやくスギ薬局での鷺宮地域包括支援センターになって実を結んだ。
1か所の保健室や地域包括支援センターで支えることができる人数には限界がある。 肝心なのは、いかにしてその「応援部隊」を作れるかが最大の課題である。
A さんが会話の中でこんな言葉を今日は残してくれた。「毎週ここにきているが、今度は〇〇地区の集まりにも顔を出すようになりました。せっかく声をかけてくれたので、義理でも行かなくちゃいけなくなって・・これが人情なんでしょうねえ」と。
公助や共助という言葉があるが、ともに助け合うためには「恩を返す」という人情が必要になる。日本的な文化というと何か古めかしい、下手をするとパワハラと言われかねない、そんな忠告が聞こえてきそうだが。
情が通う、心が通じる、そんな基本的なことが忘れられているのかもしれない。幼少期に読んだビクトル・ユゴーの「ああ無情」には、「法には情が必要だ」という言葉があったように思うが、これも私の都合の良い物忘れかもしれない。