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ぱぱす代表取締役会長の根津孝一さん 〈その1〉進化から真価へドラッグストア・ストーリー⑨

“進化”から“真価”へドラッグストア・ストーリー
素晴らしき経営者との出会い⑨
マツキヨココカラ&㏇グループ ぱぱす代表取締役会長の根津孝一さん 〈その1〉

下町を中心に店舗展開し
地域住民の健康や快適生活に寄り添い35年――

 私の手元に1冊の書がある。銀行マンだった小説家の江上剛さんが、初めて長編時代小説に挑んだ薬種商の手代の物語を綴った『根津や孝助一代記』(発行元:祥伝社文庫・A6判)だ。訳あって母親と共に父親の元を去り、父を知らずに、やがて母とも別れることになったものの10数年後に再会。そして母の死を乗り越えて店頭で来店客の悩みに親身に応えるなど、立身出世をしていくストーリーを読むうちに、「さて根津や孝助?どこかで聞いたことがある」と浮かんできたのが、ドラッグストアランキングNO.3にランクされるマツキヨココカラ&カンパニーグループのぱぱす創業者、根津孝一さんである。1989年11月に創業し今年で35年目。創業以来、下町を中心に“あなたの町の生活便利店”として薬局を営み、人情に熱く地域住民の健康や生活に役立つことであれば、何はさて置いても常連客のために、いつも必要な商品を取り揃えてきた根津さん。その人柄、行動力、優しい心は、『根津や孝助一代記』の主人公である孝助さんに似ている。もちろんフィクションだが、私の頭の中には、いつの間にか根津や孝助さんは、ぱぱすの根津孝一さんになり変わっていた。今回から、連載『“進化”から“真価”へドラッグストア・ストーリー 素晴らしき経営者との出会い』は、ぱぱすの創業者として、また10兆円産業形成が間近になったドラッグストア業界隆盛への道筋を築いた一人である根津孝一さんに登場いただいた。

1989年に一号店を開局し今日まで地域住民の健康創造に全力

ぱぱす創業者で代表取締役会長の根津孝一さん

 「本日は、ご多様の折、かくも大勢様にご来場いただき、誠にありがたく存じます。本日、申し上げますのは、本所相生町一丁目で薬種商―つまり薬屋を営み、文化文政から安政の頃まで大いに栄えた根津や孝助の話でございます」
 物語は、噺家が『根津や孝助の一代記』主人公の幸助さんを語る想定となって進んでいく。夕日に赤く染まった川面を見つめ、母親と別れた日を思い出すシーン始まる。孝助さんは、母親と別れる間際に「絶対に負けるんじゃないよ」と聞こえた声を胸に秘め、やがて医者の紹介で薬種商の養生屋で手代として生き抜いてきたなかで、多くの人々と出会うことになる。
 『根津や孝助一代記』が想定されたのは江戸時代だったが、根津孝一物語は1989年11月に、「下町に暮らす人たちの健康づくりと笑顔のために…」と東京の下町を拠点に1号店をオープンした時から始まる。

 ぱぱすの経営は、最初から順風満帆ではなかった。苦労に苦労を重ねて辿り着いたのが、誰も挑んだことがなかった下町を拠点とした店舗展開であった。常に地域住民に寄り添い、そしてマツキヨココカラ&㏇グループの一員として迎えられ、創業35年の今もなお、多くの人々に愛されている。根津さんは、「誰もが幸せになってほしい」との思いで、35年間に渡り地域住民の健康創造に力を注ぎ、今日、ぱぱすの舵をとってきた。

どの店舗でも“ぱぱすおじさん”が常連客を出迎えてくれる

 現社名の「ぱぱす」の由来は、パパとママの居る温かい家庭を連想させ、さらに大きな目標(PURPOSE=パーパス=目的・決心)との語呂合わせでネーミングされた。ぱぱすには、いつもたくさんの地域住民が気軽にママチャリに乗りやってくる。人気の秘密は、「欲しいものが一度に手に入る」ドラッグストアだからだ。
 風邪をひいた、胃が痛い、腰痛などのセルフメディケーション、“未病と予防”を中心としたヘルスケア関連商品も数多い。健康づくりのための医薬品や健康食品、フライパンなどのクッキング用品、スリッパ、掃除用品、電球、乾電池等々、地域住民の快適生活をサポートする豊富な商品を取り揃えている。

ママチャリに乗り来店する常連客(東京・墨田区の本社1階のぱぱす横川店)


 あれもこれも必要な商品を買い求め、自宅に戻る際には自転車の前後の買い物かごは満杯。
 むろん物販だけでなく処方箋調剤にも対応してくれるから、下町に住む人たちにとって、ぱぱすこそは、まさに街の“健康ステーション”でもある。開店してすぐに自転車置き場は短時間で満杯になり、やがて買い物カゴに購入商品を入れて帰る。その繰り返しの日々だが、地域住民から親しまれている理由には、下町を中心に拡大してきたどの店舗に行っても、コーポレートカラーの黄色とメガネをかけた“ぱぱすおじさん”が、そしてスタッフが笑顔で出迎えてくれるからだ。


 根津さんが下町に根を下ろし創業したぱぱすには、優秀な人財がいてドラッグストア経営に可欠な商品を提供した企業や卸の協力があって成り立っている。例え一か月に1品目、いや二か月に1品目しか売れないかもしれない商品もあるだろう。それでも根津さんは根気よく自店を運営してきた。
 「私たちが忘れてはならないのが、暑い日寒い日、雨降りの時も雪の日も来店していただく多くの生活者のために存在することを…。もちろん利益も大切ではありますが、どんなに広い店舗であってたくさんの商品があっても売れなければ何にもならない。そのための“接客”の二字は、これまでも今もこれからドラッグストアにとっては重要です」と話す根津さんの頭の中には、母親が運営していた化粧品店で自らが実践した接客の喜びがいつも離れなかったという。
 ロイヤルカスタマー(優良顧客)でもある地域住民の来店頻度は、どのようにして増やしていくか。その一つに「商品と接客」があり、ぱぱすというブランド名に親しみを持ってもらうために、どの店舗でも“ぱぱすおじさん”が、笑顔で地域住民を出迎えてくれる。このシナリオは見事に成功した。

来店した常連客のためにも「絶対に欠品するべからず」

薬種商の手代の物語を綴った書『根津や孝助一代記』(江上剛著・祥伝社文庫刊)

 店内には、地域住民の健康づくり、暮らしをサポートする多くの商品が取り揃えられ、ぱぱすに働くスタッフは常に欠品のないよう気を配る。常連客、働くスタッフを大切にしてきた根津さん。人情に熱くいつも温和だが、時折、その表情は豹変することがある。
 常連客が、「ぱぱすならば置いてある」と思い来店した際に、欲しい商品がなかったときである。ぱぱすにとってどんな理由があったにせよ、“欠品”は絶対に禁句。大切な地域住民をがっかりさせないためだ。根津さんは、「お客さまは、ぱぱすに行けば必要な商品がいつも揃っていて買うことができるから来られるのに、なければ二度と来店しなくなるかもしれない」と手厳しい。ドラッグストア業界が、とてつもない進化を遂げていればいるほど、一人ひとりの常連客を大切にしなければならないという強い信念があるからである。


 都内墨田区横川町の本社に行くとエレベーター内に、「お客が、ぱぱすに買い物に来なくなる理由」として、①店舗スタッフの接客(接遇)への不満、②商品に対する不満(価格・欠品・品揃え) 、③競合店の出店、④知り合いの店舗で購入、⑤引っ越しの5項目が掲示されている。 
 「欠品するべからずは、当社の鉄則。お客様のニーズは多様化していますから、絶対に侵してはならないのが欠品。いついかなる時でも、買い物を終えて店の外に出るお客様が、また来ようと思っていただくことが、ぱぱすの他店との差別化だと思っています」

                                (次号に続く)

【記者の目】
 根津さんは、ドラッグストアが経産省に産業として認められるとともに、1999年6月に旗揚げしたJACDS(日本チェーンドラッグストア協会)設立の功労者の一人。今は亡き初代事務総長の宗像守さんらと、当時マツモトキヨシ(現マツキヨココカラ&㏇)副社長だった松本南海雄さんのJACDS会長就任を実現させる一方、アメリカのドラッグストア業界視察で立ち寄った展示会を手本に、2000年にジャパンドラッグストアショーの運営委員長として活躍。ドラッグストア業界発展の基礎固めに取り組んできた。ウエルシアHD 代表取締役会長の池野隆光さんから、JACDS会長の座を受け継いだ塚本厚志さん(現マツキヨココカラ代表取締役副社長)体制へ、引き続き副会長に押された根津さん。ドラッグストア業界の今日の隆盛に尽力し、そしてぱぱす創業者としても、35年間に渡り陣頭指揮をとってきたが、これまで辿ってきた道は紆余曲折の連続だった。しかし苦難ではあったものの、母とともに営んできた化粧品店で接客の楽しさを学び、そして当時、繁華街への出店政策を進めるケースが多い中、あえて下町を拠点としての店舗展開を貫いてきた。「繁華街立地への出店競争は、激しくなるだろう。ならば当社の出店はあえて下町立地に限定して徹底的にカウンセリングをしよう」として、ぱぱすは地元民の信頼を得てチェーン展開をしていった。 医薬品小売業界では、かつて適配(新規出店など適正配置条例)ありし頃は、今のように自由な新規出店はできなかったが、それでもいろいろと策を練り繁華街やオフィス街といった好立地への出店競争が相次いでいた中、根津さんは、なぜ下町への出店したのだろうか?次回にお伝えしよう。


【著者プロフィール】
山本武道(やまもとたけみち)
千葉商科大学経営学部経済学科卒。1969年からジャーナリスト活動をスタート。薬局新聞社の記者として中小の薬局、ドラッグストア分野、自然食品・ヘルスフードを取材。健康産業新聞社取締役を経て、青龍社取締役に就任。その後、フリージャーナリストとして『JAPAN MEDICINE』(じほう社)、『ファーマウイーク』(同)の遊軍記者として参加。2007年、ヘルスビジネスマガジン社取締役社長、がん患者と家族に向けたWEBサイト『週刊がん もっといい日』を開設し、編集長に就任。2007年から中国ドラッグストア経営者対象の『月刊中国葯店』(北京市)に連載中。現在、ヘルスケアワークスデザイン取締役会長、モダン・マーケティング代表。『週刊がん もっといい日』編集長、シード・プランニング顧問。元麻布大学非常勤講師。